2024年5月11日(土)~12日(日)に、反差別研修として、狭山現地調査に行ってきました。
行き先は、当たり前ですが、埼玉県狭山市です。
「狭山事件を考える徳島の会」などの仲間たちと共に、前日10日(金)の夜10時に藍住町に集合し、貸切のマイクロバスで出発です!
明け方、朝食をとって向かう途中に見える富士山がキレイ。
狭山に行く前に、熊谷市の「小江戸」に立ち寄ります。昔ながらの街並みが残る、風情のある観光地でした。
狭山に着いてまず、早智子さんに昼食に案内していただきます。
その後、お墓参り。
石川さんのお父さん、お母さんのお墓です。
「俺が無罪だということは両親が一番よく知っている。罪を背負ったままでは、両親に顔向けができない。無罪になるまで絶対に墓参りはしない。お墓に手は合わせない」
そう言う石川さんの代わりに、私たちは手を合わせ、墓前に誓います。
お墓から歩いて富士見集会所の会議室へ。石川さんと早智子さんから1時間ほどお話を伺います。
石川さんからーーー
24歳の死刑判決から60年。
読み書きできなかった不自由さ。せめて小学6年生まで学校に行けてればー。
父も母も識字だった。
貧しさのなか、年季奉公にも行った。
警官のなかには悪い人もいるが、いい人もいた。
刑務所の刑務官は、そんな俺に字を教えてくれた。刑務官の奥さんが、「クビになってでも教えてあげなさい」と言ってくれたから。8年間バレることなく、1日に1万字。深夜の2時や3時までも勉強をした。
元気なうちに無罪を勝ち取りたい。
早智子さんからーーー
今朝はうれしくて朝の4時に目が覚めていた。
初めて狭山に来たのは1997年。
今年は、死刑判決が出て60年、寺尾判決が出て50年、仮出獄となって30年。節目の年。
できるなら一雄さんの短歌集を作りたい。
最近一雄さんはよく転ぶようになった。
この春、新しく替わった家令裁判長は、1時間半に及ぶ狭山事件のプレゼンを聞いてくれた。
検察官からの抵抗を、「聞きましょう」と言って収めてくれた。
「徳島の会」は欠かさず狭山の地まで来てくれる。本当にありがたい。
お話のあと、マップに沿って、狭山駅を出発します。
殺害された日にお祭りが開かれていた荒神様。
当時はどこも雑木林や畑だったところも、今はほとんど住宅地。
ここだけわずかに、畑が広がります。
女子高生が殺害されたとされる現場です。
当時は雑木林だったそうですが、今は住宅地となっています。
女子高生があげたとされる叫び声は、近くで農作業をしている人にはまったく聞こえなかったというのですがー。
拠点となっている事務所の中には、当時の石川さんの自宅が再現されています。
有名な、女子高生が持っていたとされる万年筆が見つかったという鴨居です。
2回の大捜索で見つからなかったものが、3回目のわずかな捜索であっさり見つかった万年筆。
見つかった万年筆と、女子高生の万年筆のインクの色が違う。
万年筆には石川さんの指紋がない。
脅迫状と石川さんの文字は決定的に違う。
そもそも石川さんは文字自体が書けなかった。
などなどなどなど。。。
本当におかしなことばかり。なのに、なぜ裁判は開かれないのか。。。
最後に、一雄さんと一緒の記念写真を撮らせていただきました。
必ず無罪を勝ち取る。その思いをあらためて確かにしました。
その夜は早智子さんを囲んで、みんなで懇親会。
翌日は軽井沢に立ち寄って、日曜日の夜11時にようやく徳島に帰り着きました。
いつか必ず、無罪になった一雄さんを徳島に迎えて、ドンちゃん大騒ぎしたいです。
ー狭山事件とはー
今から61年前の1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高生が行方不明になり、脅迫状が届けられるという事件が起きました。
警察は身代金を取りに現れた犯人を、40人もの警官を張り込ませながら取り逃がしてしまいます。女子高生は後日遺体となって発見され、警察の大失態に世論の非難が集中しました。
捜査に行き詰った警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中させ、何ら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1ヶ月にわたり警察の留置場で取り調べ、ウソの自白をさせて犯人に仕立て上げます。
地域住民の「あんなことをするのは部落民に違いない」という差別意識や、マスコミの差別報道の中で冤罪が生み出されてしまったのです。1審判決は死刑。2審判決は無期懲役。1977年に無期懲役が確定し、現在は第3次再審請求中です。
第2次再審請求中の1994年12月21日、31年7ヶ月ぶりに仮出獄をした石川さんは、その後徳島出身の早智子さんと結婚をし、狭山事件の真相と公正な裁判を訴えて全国を駆け巡っています。
11人の証人尋問・新証拠の鑑定を裁判所に求める署名は、現在52万筆にのぼっています。